黒沼





夏が終わろうとしていた。

桜大おうたは、この季節がきらいだった。
生まれつき少し体の弱い桜大は、毎年この頃になると、夏の暑さを耐えた疲れが出て体調を崩す。夕方になると、微熱が幼い桜大の体をぢぶぢぶと炙った。
それでも年を重ねるごとに体力もつき、毎日のように寝込むことはなくなったが、母は桜大に安静にしているよう厳しく言いつけていた。 母はなんとしても、来年桜大を無事小学校に上げてやりたかったのだ。


蚊帳の中の布団の上。ポツンと座った桜大は、開け放した障子から夏の黄昏をながめる。
黒いぐらいに青さをました空。緑の山々の裾野をうめつくして、一面の稲穂が黄金色(きんいろ)に波打つ。 その上をアキアカネの群れが、さかんに飛び交っている。遠くに、近くに、ヒグラシが鳴いている。

カナカナカナ  カナカナカナ

体調を悪くさせる恨めしい恨めしい季節だが、桜大はこの黄昏の風景は、素直に美しいと感じていた。
もともと体が弱い桜大だから、近所の子どもらと仔犬のように野山を転げ回って遊ぶことはできない。 そのかわり、桜大は一人遊びが得意だった。あぜ道を渡り花や虫をながめ、水たまりでオタマジャクシを追い、大空をゆく鳥や雲を、何時間も見て過ごした。 季節ごとにうつろいゆく花と緑の色と、水と土の匂いと、風の温度が桜大は好きだった。
父は役場に勤めているが、桜大の家はもと農家だった。桜大は、将来は米や野菜を育てながら、この自然とともに暮したいと思っていた。 体もだんだん丈夫になってきている。きっと農業をやれるようになると自信があった。
「だって、熱は出ても前はもっとしんどかった。来年は熱も出ないかもしれん」
桜大は、そう自分にいいきかせた。


  傾いた夕陽が赤々と燃え出すと、夏の匂いがいっそうあたりにたちこめる。 稲穂の匂い。庭に咲く百合の匂い。
今ごろ、川向こうの森の中は、斜めに射しこんだ夕陽をあびて、血のように真っ赤だろう。沢瀉おもだかの銀の花をうつして、古沼は静かに静かに眠っていることだろう。 もうそろそろ、水路でカエルが鳴きだす頃だ。ほんの少しの間、世界がしんと静まる時。
桜大は、目を閉じた。鼻先を百合の香りがかすめる。そして
「あ……魚を焼いてる」
夕飯の支度も、それぞれの家で整う頃。チリンチリンと、自転車が通り過ぎてゆく。
「駐在さんが、夕ごはんを食べに帰ります」
そうつぶやいて、桜大は一人クスクスと笑った。その耳に、どこからかかすかにきこえてきたのは、祭囃子。

 ピーヒャラドンドン ピーシャラララ ピーヒャララ

桜大の口元が、への字に結ばれた。桜大がこの季節がきらいな理由が、もうひとつある。
鎮守の森の夏祭り。子どもたちが一番楽しみにしている、夜店が一番たくさん出て、大人も子どもも夜通し踊るこの祭りに行けないことだ。 いつもこの祭りを狙いすましたように体調がくずれる。どんなに大丈夫といっても、母は決して外出を許してくれなかった。
近所の子どもらが、浴衣姿でキツネやお多福のお面を後ろ頭に、楽しそうに通りを走ってゆくのを、桜大は障子の間から、指をくわえてながめていた。 あくる日に、友だちが焼き栗やりんご飴を見舞いにもってきてくれてもうれしくなかった。
「お祭りに行きたい。みんなといっしょに踊りたいよ」
幼い桜大のささやかな願いは、今年もかなえられそうになかった。


「どうじゃ、桜大? まんま食えるか?」
祖母が夕飯に呼びに来た。
「うん、大丈夫じゃ。腹へった」
桜大はしっかりと返事をし、蚊帳から這い出た。
「お祭りのお囃子の練習、はじまったんじゃな、おばあ」
桜大がそう言うと、祖母はつないだ手にキュッと力をこめ、つぶやくように言った。
「きいちゃ、なんねー」
そのつぶやきの意味は、桜大にはわからなかった。無駄な期待はするなということなのだろうか。桜大は小さくうなずいた。


玄関で、父と同僚たちが話しこんでいた。このところ、毎日父は帰りが遅い。なにやら大きな出来事があったらしい。 村の大人たちが、道端で、店先で、よくこうして集まっては話しこんでいるのを見かける。
「うまい話でねぇか」
「いや。これは賭けじゃ」
「そいでも、あんな役立たずの土地……」
「反対はまだまだ多いの、押し切るんか?」
「おめー、あんな話信じてんのか?」
「そういうわけではねぇが……」
「わしも、そういう話はおいといても……」
「ヨシさん、あんたがしっかりしてくれんと困る。あんたがリーダーなんじゃから」
父が、同僚のひとりに詰め寄られている。桜大は、それを見てオロオロした。その桜大の手をにぎった祖母の手に、ぐっと力がこもった。
「あんな話ちゃ、どんな話のことじゃ!!」
怒気をはらんだ祖母の大声に、全員が飛び上がった。
「こりゃ、ご隠居さん……っ!」
「そぃじゃヨシさん、頼んだよ」
父をはじめ、大の大人たちが縮み上がり、逃げるように立ち去った。
桜大も、初めてきく祖母のどなり声にびっくりした。小さくてシワシワで、 いつも二つしかチャンネルの入らないテレビを、わかっているのかいないのかニコニコとながめている祖母。 体の弱い桜大をかばい、本を読み、昔話をして、遊び相手をしてくれるやさしい祖母。
いったい、何をそんなに怒ったのだろうか。桜大には、なにがなんだかさっぱりわからなかった。
叱られた父は、バツが悪そうに玄関から上がってくると、桜大を抱き上げた。 細くてやわらかい手が、桜大のおでこに当てられる。
「今日も熱が出たのか、桜大。大丈夫か?」
「大丈夫じゃ。今年はお祭りに行けるよな? なっ!」
「そりゃ、お母にきかんと」  
台所へゆく父に、祖母が言った。
「黒沼に手ぇ出すな、ヨシ」  
父は黙っていた。その眉間に深く皺がよる。
桜大には、父は何かに迷っているように見えた。迷って困って、苦渋にみちた言葉が吐き出される。
「おばあ。わしだって、好きでやっとるんじゃねーんだワ」
「だったら、なおさらじゃ」
  祖母の返しに、父の喉がグッと鳴る。空気が張り詰めた。
「ケ、ケンカせんで……」  
桜大の顔が真っ赤になっている。父は慌てて桜大をあやした。
「ケンカなんかしとらんぞ、桜大。さあ、メシを食おう。メシ、メシ〜」
  その日は、祖母は夕飯の間中、口をきかなかった。


  夜。床の中で、桜大はなかなか寝付けずにいた。
祖母が言った言葉が、何度も頭をよぎる。

“黒沼に手ぇ出すな”

黒沼――。
川向こうの森の一番奥まったところに、ぽかりと開けた場所があるという。昔は沼だったらしく、黒沼と呼ばれている。
「あそこは蛇の巣で毒蛇がウヨウヨおるで、近づいてはいかん」
  子どもたちは、大人たちからそう厳しく言われていた。
事実、ワルガキどもがそこで太腿ほどもある青大将に出くわしたと、泣きべそをかいて逃げ帰ってきたことがあり、 村の子どもたちみんなの前で、村長から大目玉をくらっていたのを、桜大はかすかに覚えていた。
蛇は恐くないが、毒蛇は恐い子どもたちは、森に入っても奥へは行かない。桜大もそうだった。ただ桜大は、あの森は特別好きな場所だった。
  深い深い木立。たちこめる木と緑の匂い。ここでは光も空気も、ぜんぜん違っていた。すべてが生き生きと身に迫ってきた。
なんだか大きな生き物の体内にいるような、ここに一人で立っていると、その一部になったような気がした。それはとても心地よかった。
  こうして、桜大はよくブラブラと森の中を散歩した。そしてふと気付くと、ずいぶん奥まで入り込んでいることがあった。 そんな時―――
「リャ――、リャ――、リヤ―――ッ!!」  
それまで静かだったのに、頭上で突然鳥が鳴きだして、びっくりすることがある。
それはまるで「これ以上奥へ進むな」という警告のように思えて、桜大はいつもそこから引き返すのだった。   そのことを祖母に話すと、祖母はうんうんと頷きながら言った。

「森の奥にゃ、神サマがおるからなあ。人がはいっちゃいかんのヨ」

「あ、そうか!」  
桜大は、思わず起き上がった。
「黒沼には神サマが住んでるから、入ったらダメなんじゃ。だから、おばあは怒ったんじゃ」
と、納得しかけたが、
「ん? じゃあ、お父は黒沼へ入るのか? あんなとこへなんで入るんじゃ?」
と、また首をひねってしまった。


  川向こうの森周辺で、桜大は時折不思議なものを見聞きする。
  たくさん飛び交う蜻蛉や蝶にまじって、シャボン玉のような丸い光が連なって、蛇のようにくねくねと飛んでいた。
  森の小道を、鼓笛隊の「音」だけが、通り過ぎていった。それは、桜大のすぐ目の前を通ったのだ。 見えない鼓笛隊は「虫の声」を演奏しつつ、小道の向こうへゆっくりと遠ざかっていった。
  黄昏の橋の下には、黒い人影がじっと佇んでいた。そこを祖母と通りかかった時、祖母は桜大に言った。
「声をかけちゃいかん。見えないふりをするんじゃよ」  
父や母に話しても、笑うばかりで取り合ってくれないことだが、祖母は違うのだ。
「おまえのお父も、ちんまい頃はいろんなモノを見たり聞いたりしたサ。でも大人になると、それは見えなくなるもんでの。 だから皆思うのサ。あれは、子どもの目の見間違いなんじゃとな」
「おばあも、もう見えんのか?」
「見えん。だが、おばあにはわかるんじゃ。桜大が見えとることが、わかるんじゃ」  
祖母はそう言って、やさしく桜大の頭をなでた。桜大は、祖母が自分のことをわかってくれていることがうれしかった。
「おばあ! 今日、たぬきが二本足で立って歩いとったぞ。ずーっと立って歩いとったぞ」
「そりゃ、かわいいことじゃの」
「桜大。そういうことは、よそさまでは言わんのよ」
  母は、桜大が不思議を口にすることに、あまりいい顔をしなかった。そのへんのことを、桜大と祖母に注意するよう父に言っているようだが、父は何も言わなかった。

「おれが変なモノ見たって言っても、アホじゃなとかしか言わんけど、ほんとはお父も、そういうの信じてるのかも……」
  夜風が竹の葉を揺らしている。月明かりに白くにじむ障子を、何者かが音もなく横切っていった。
「それなら、お父……。黒沼には入っちゃダメじゃ。あそこには神サマがおるんだって。だから入っちゃダメじゃ……」  
ウトウトと眠りに沈んでゆく桜大の耳に、遠くで祭囃子がきこえた。

  ピーヒャラドンドン ピーヒャラララ ピーヒャラララ



  あくる日。桜大は昼飯のおつかいに出た。
豆腐屋の店先で、大人たちがなにやら話し合っていた。桜大は話の輪にそっと近づいた。豆腐屋が強い口調でしゃべっていた。
「おれが心配しとるのは、黒沼のことやない。キャンプ場にくる客のことじゃ。中にゃ変な奴もきっとおる。いかれたガキどもが好き勝手せんか、それが心配なんじゃ」
「そんな若い奴らは、こんな奥までわざわざ来やせんて」
「だが確かに、騒がしくはなるじゃろうなあ。この村みてぇな、山や川がきれいな場所が、今の流行はやりらしいからの」
「ちょっとは他所よそから人に来てもらわんと。村も活性化せん」
「わしは、この村はこのまンまでええと思う」
ここでも、大人たちはいろいろ困っていた。はっきりした結論を出せずにいるようだった。
豆腐屋が、桜大に気付いた。
「お、桜大。いたんか。買い物か?」
「アゲおくれ」
「具合はどうじゃ? まだ熱が出るんか?」
新聞紙にアゲをくるんでいる豆腐屋に、桜大は尋ねた。
「セーやん。お囃子の練習、はじまったんか?」
「いいや、土曜からじゃ。今のうちに精つけて、祭りにゃ間に合うように元気になれや」
桜大は不思議に思った。ではあの祭囃子は、誰が演奏しているのだろう。



巨大な入道雲が、むくむくと大空に立っていた。桜大は口をポカッとあけて、ブ厚い綿菓子のような雲に見入っていた。
小川では子どもたちが、ワイワイとにぎやかにかい掘りをしている。本当はそこに混じりたいが、我慢して木陰で見学中の桜大のもとに、年長の友だちがやってきた。
「見ろ、桜大。でっけぇ蟹じゃろ! おまえにやる」
桜大はうれしそうに受け取ると、友だちの背後を指差した。
「ヒロちゃん、天狗じゃ」
「ああ?」
山の頂に一本、頭の飛び出た杉の大木がある。そのてっぺんを指差して、桜大は言った。
「天狗がおる」
「ふぅん。桜大にゃ、あれが天狗に見えるんか」
「ヒロちゃんにゃ見えんのか?」
「みょ〜にでっかいカラスに見える」
「ふぅん」
「ヒロちゃーん。そろそろ行こーぜー」
仲間が呼んでいる。
「オーウ。おまえはもう帰れよ、桜大」
「お囃子の練習に行くんか」
「おぅ。今年こそ祭りに来いよな」
桜大は、ウンと頷いて友だちと別れ、言われた通りまっすぐ家に帰り、おとなしくしていた。
寝間で、もらった蟹をながめる。水を張ったガラスの器の中で、蟹はぷくりぷくりとアブクを吐いていた。そうしているうちに、桜大は急に気分が悪くなってしまった。
「お母、気持ちが悪いよぅ」
台所の母のもとにやってきた桜大の顔は、真っ赤だった。
母は、すぐに薬を飲ませて寝かせた。この時期こんなことはよくあることだから、母は別段あわてなかった。



「様子はどうじゃ?」
「ハイ。まだちょっと熱があるみたいでスけど、今日はもうこのまま、ずっと寝とるでしょう」
寝間の隣の部屋から桜大の様子を見ながら、祖母と母が話していた。
「わたし、桜大を見とりますんで。ばあちゃん、話し合いへは一人で行って下さい」
「うん」
「あんまり、あの人をいじめんで」
母は、祖母に手を合わせた。
「わしは言いたいことは言うで。親も子も関係ねぇ。黒沼の森を切り開くなんて、とんでもねえこった」
「あの人は、役場の立場上仕方ねえんです」
「やりたくねぇなら、やりたくねぇと言えんような仕事なぞ、やめてしまえばええんじゃ!」
桜大は、このやりとりを熱っぽい頭のすみっこで、切れ切れにきいていた。
「森を……切る……? そんなのイヤじゃ…………」
意識が浮かんではまた沈む。小川に浮かぶ木の葉のように、桜大はぬるい闇の中を、ゆらりゆらり漂った。




どれぐらいそうしていただろうか。闇の向こうから、祭囃子が聞こえてきた。
「ああ、お祭りに行きたい……行きたいよ……」
「桜大」
すぐ耳元で、名前を呼ばれた。
ハッと気付くと、桜大は黄昏の縁側に座っていた。
「あれ?」
確か、熱を出して寝込んでいたような気がするのだが。寝間には布団はなく、蟹の入った器があるだけだった。
何時ごろだろう。夕焼けが真っ赤に空を染め、傾いた太陽光線の中で、景色が血の赤と、群青の青に彩られている。 いつもと同じ山間の夕景。でもどこか、なにか違うような――そう思った時、桜大の耳に、ふいに賑やかな祭囃子がきこえてきた。
「お祭りに行こう、桜大」
目の前に、キツネの面をかぶった子どもがいた。
「誰じゃ? ヒロちゃん?」
「お祭りに行こう、桜大。おまえ、行ったことないんじゃろ?」
面の向こうから、子どもが言った。
「うん。でも……」
桜大は家の中を見た。寝間の向こうの空間は、真っ暗だった。
「おばちゃんがな、行ってもいいって」
「ホ、ホンマか!!」
桜大は飛び上がった。
「ああ。わしが連れてってやる。お祭りに行こう」
「うん、行こう!!」
桜大は、キツネ面の子どもと手をつなぎ、庭を飛び出していった。

刻々と夕闇に沈みゆく景色の中に、高く、低く、祭囃子がきこえていた。